ジオシティーズのことを初めて知ったときは驚きました。広告代金で運営する無料ホームページというアイディアも面白かったし、このビジネスモデルは間違いなく大成功するとも思いました。(実際には、そうでもなくて、多数の類似サービスが消えてしまったわけですが。)
その後、私はジオシティーズジャパンに登録したのですが、それは、ジオシティーズが私が最初に出会った無料ホームページであり、その種のサービスの中で最もすぐれたものに思えたからですが、そもそも、おそらく将来はISPを変えることになるだろうと考えていた (実際、変更し、現在のISPは、当時から数えて4つ目) ので、その場合でも自分のページのURLが変わらないようにしたかったからでした。
最初のページ群を http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/9700/ に作るまでに二ヶ月ほどかかりました。そこでは、FreeBSD の fe ドライバに関する話題だけを扱うつもりでした。
「FreeBSDとfeドライバのページ」の開始後しばらく、一〜二週間に一回程度の頻度でページを追加したり更新したりしていました。ところが、fe ドライバに関して書きたかったことを書いてしまい、また fe ドライバそのものもバージョンが上がらなくなると、もともとホームページを作リ始めた熱意がなくなりはじめました。更新の感覚がどんどん長くなり、1999年の11月に、完全に止まってしまいました。
その間も、ハッカーたちはやるべきことをやりつづけ、FreeBSD は進歩していました。私が行き詰まっている間にも、FreeBSD プロジェクトへの参加者たちは、新しいコードを書いたり、様々な実験を行ったりしていました。私のページの情報は、だんだん古くなっていました。
FreeBSD から私が遠ざかっていた時も、email は受け取っていました。fe ドライバの問題点の指摘、変更の提案、また、未サポートのボードに関する情報もいただきました。その一方で、ジオシティーズの市民憲章では三ヶ月以上ページを更新しなかったユーザは除名されることになっており、私は実際に九ヶ月ほど全くページを更新していませんでしたが、ありがたいことにジオシティーズは私を除名せずにおいてくれました。
そこで私は、2000年の9月に、ページの更新を再開しました。
再開に当たって、私は、扱うテーマを拡大することにしました。ホームページの更新が、また面白くなって来ました。
ところで、2001年の10月初めに、ジオシティーズジャパンはガイドラインの変更を発表しました。新しいガイドラインでは、ジオシティーズジャパンは、望むならユーザのコンテントをコピーしたり、修正したり、他人に転売したりする権利を持つことになるようでした。ある種のユーザが、この点に文句を言っています。しかし、私には、この点はあまり気になりません。もともと私は、私のコンテントについて財産権を主張するつもりはありませんでした。でも、ジオシティーズジャパンが、私の作品を任意に修正した上で、私の名前でバラまく権利を得ることは我慢できませんでした。
もう少し詳しく言うと、私は、誰かが私の作品を修正したり、配布したり、販売したり、修正したものをその人の名義で配布することは気になりません。しかし、誰かが私の意に添わない変更を行って、それを私の名前で配布し、それに対して文句を言うことができないという状況が嫌だったのです。
そういうわけで、私は、新しいガイドラインが有効になる前に、全てのページを削除することにしました。
ジオシティーズジャパンには三年間いました。ここを離れなければならないのは残念です。
ここまで読んでくれてありがとう。でも、また戻ってきます。どこか別のサイトでお会いしましょう。